霊魂はなくてもあっても転生はある整理中昔の哲学は昔の哲学は、神が主体のものが多かった、といわれています。 それは宗教の影響が強かったのでしょう。 あるいは、そういった哲学者たちにいわせれば、「神は実在する」なのでしょう。 世界一級の哲学者たちが、そうだったのですが、現代人の多くは、それを笑うのでしょうか。 デカルトは、神の存在証明をしています。 それはキリスト教の影響においてなされたのでしょうか。 しかもデカルトは、霊魂の存在の証明にまで至ったようです。 霊魂はあるということは、転生もある、としたのでしょうか。 キリスト教は初期を除いて、転生はないとし、再生と、地獄・煉獄での霊魂の生、天国での霊魂の永遠の生、などといったことを主張しているようです。 デカルトはそういったことについて、どういった結論を導き出したのでしょうか。 さて、世界哲学(⊃質の科学。質の科学は世界哲学の一部)では、「意識」を主体にして世界観を構築しています。 こんなふうにです。 この世界でもっとも重要なのは「意識」である。 この世界において、なくてはならないものは「意識」である。 なぜなら、「意識」がないと、この世界はないにひとしいからである。 ちょうど、映画が上映されていても、それを観て意識し味わう人がひとりもいなければ、その映画はないようなものだ、といえるように。 注)その映画をつくったのは大自然だとします。 あるいは、大自然をその映画に例えた、といってもよいでしょう。 注)その映画をつくったのは人であるとしたばあいでも、その人が、観客なんていなくても、つくっただけで満足だ、と思っているとしても、そういうことを思って意識し味わう「意識」がそこにあるわけであり、そこに意味・意義があるわけであるから、やはり「意識」がこの世界でいちばん大切である、という立場はやはり成り立つといえます。 注)仮に、大自然をつくった存在に意識があって、 「我以外には、意識ある存在なんてなくてよい」と思っているにしても、我々人類にはそんなことはまったくわからないし、我々人類にも意識を与えよ、と思うはずであるから、やはり「意識」がもっとも重要である、といえます。 それにその条件で、大自然をつくった存在も、「やはり、意識ある存在がたくさんいないと、寂しいし、やる気はでないし、面白くないし、なにもする気がなくなる」などとなっていくにちがいないでしょう。 その「意識」というのは、人間のばあい、脳の小さな一部に対応しているようにみえます。 意識の存在する実体を「意識の主体」と名づけます。 (それは、脳の中心部あたりの網様体にあるのかもしれない。 そこに「意識の主体」がありそうです。この項はまちがっていてもこの論の正否には関係ありません。それらについては詳述しました。ちなみに、デカルトは脳の松果体に霊魂が宿っているといっています。松果体のすぐ近くに、意識の水準を司る、その網様体があります) 「意識の主体」というのは、「意識が生じる器・ハードウェア+自分という意識」のことです。 ここで、「意識」が生じる器の材料も、「意識」と同じように重要だということになります。 この段階では、「意識の主体」は、脳の回路のようなものかもしれないし、霊魂と呼ばれるべき存在かもしれない、という立場にたつのが妥当です。 1)意識の主体には、行為・体験によって、それに応じた変化がつく(物理的な事実)。 ある体験をしてつく変化と、それとは正反対の体験を同じ量体験してつく変化は正反対で同じ量である(物理的な事実)。 つまり、ある体験をしたあと、それとは正反対の体験を同じ量体験すると、その変化は元に戻る(物理的な事実)。 その変化が戻されないと、変化が限界に達して、意識の主体は壊れてしまう(物理的な事実)。 その変化が元に戻されると、意識の主体は壊れることがない(物理的な事実)。 その変化は必ず元に戻される(公理;この世界でもっとも重要な意識の主体を守り壊さないための仕組みがある。あるいは、体験には正と反が同じずつあるので、確率的にもそういえる)。 その変化が元に戻されるということは、人は皆、ある体験をしたら将来必ずそれとは正反対の体験を同じ量体験することになる、ということである(物理的な事実)。 よって、人は皆、ある体験をしたら将来必ずそれとは正反対の体験を同じ量体験することになる(公理と物理的な事実からでてくる法則)。 それを「体験総量プラスマイナスゼロ化則」と名づけます。 2)任意の人(どの人もすべて。すべての人が一人一人)の死後、その人の意識の主体とまったく同じ人が生まれてきたら、それはその人の転生である。 それについて、まず、意識の主体という器(ハードウェア)は脳の一部である、という立場にたって考えてみましょう。 その立場では、意識の主体の総数よりも、生まれてくる人間の数の方がはるかに大きいからそういえるのです(計算するとそうなっている)。 もっと詳しく説明します。 意識の主体が脳の一部である回路のようなもの(物質の組織)だとすると、そこの物質の元の組合せから、意識の主体のちがい(Aさんの意識、Bさんの意識、Cさんの意識・・・)というものが生じていると考えるしかない。 その物質の元の組合せの総数(意識の主体の総数はそれよりも少ない)を計算してみる。 そういった元の総数が桁外れに多い人体(人)の可能な総数を計算してみると、その総数は、意識の主体の総数よりも、桁外れに多い。 ということは、今までに生まれてきた人の総数が、意識の主体の総数を越えてしまっているとすれば、同じ意識の主体をもっただれかは、転生していた、ということになる。 その越えた程度が、何倍もであれば、すべての人は転生してきている、と、ほぼいえる。 その越えた程度が、何倍も、をはるかに越えていれば、確実に、すべての人は転生を続けてきている、といえる。 そういった時点が未来のことであれば、未来のその時点でそういえることになる。 以上が、霊魂のようなものはなく、意識の主体は脳そのものにあるという立場での、転生の証明のようなものです。 霊魂がありそこに意識の主体はある、という立場にたっても同じく、転生はある、となります。なぜなら、霊魂の総数よりも生まれてくる人の総数の方が桁外れに多い、と計算されるからです。 結論として、霊魂はなくてもあっても転生はある、ということになります。 1)と2)を組み合わせれば、すべての人は転生していき、転生を通じて、「体験総量プラスマイナスゼロ」になっていくという結論に至るわけです。 「体験総量プラスマイナスゼロ」になっていく法則を、 プラスマイナスゼロ化則、 精神的貯金と借金の収支ゼロ化則、 体験総量元戻り則、 科学的カルマ、 質時間回帰則 などとも名づけます。 それらふたつの項目には、証明のようなものがあるわけです。 ただし、検証が完全になされているわけではありません。 検証のできない部分もあることでしょう。 そういう場合は、哲学的アプローチをなすしかありません。 世界哲学は、質の科学を用いずに哲学的アプローチだけでも、成り立たせることができますが、普通には質の科学も用いています。 つまり、それらふたつの項目は質の科学の基礎となっており、世界哲学の構成部分ともなっている、といえます。 世界哲学(⊃質の科学。質の科学は世界哲学の一部)では、さらに、哲学的手段で、大きな世界観を導き出しています。 その哲学的手段というのは、文章化した次の考え方(命題)などを公理(あまりにも当然なので証明不要である前提)として用います。 「意識がもっとも重要」 「すべての人は完全に平等になるべきである」 などです。 質の科学を用いずに、その中の、「すべての人は完全に平等になるべきである」だけを用いても、 「転生」 「質時間回帰則」 「宇宙は永遠に続いていき、人類のような意識をもった生物は、生まれ続い(け)ていく」 などという結論がでてきます。 まず、同時にすべての人を完全に平等にすることは不可能なので、時間をかけてそれがなされる、という結論が導き出されます。 ついで、そのためには、どうしても転生がなくてはならない、ということになります。 さらに、完全な平等は、数百億年程度の期間では、達成されることはなく、それよりはるかに長い時間がかかる、ということになります。 したがって、宇宙は、現在のビッグバン宇宙論が提示するよりもはるかに永く存在しつづける、消滅と生成を繰り返しながらでも、という結論に至ります。 くわえて、それ以外の論理展開によって、宇宙は永遠につづいていきそうである、という結論に達します。 そういったふうに、世界哲学は、多くの人たちに納得のいく前提と論理展開で世界観を築き上げています。 (このブログのあちこちに詳しく記しています) 質の科学の方は、科学と謳っているので、哲学的な前提は用いません(稀には一部使うこともあるかもしれませんが)。 質の科学は、科学的だと思われる手法・論理展開だけで、この世界の基本的な謎に挑戦しています。 そこにおいて、 意識というものが人にはある、ということは当然の前提としています。 さらに、 その意識が生じる器(=意識の主体)が存在する、ということもまた当り前のこととしています。 注)稀には、「意識の主体」を意識内容などと区別するために、意識という意味に近い用語として用いることがあります。 そして、その意識の主体とはなんであるのか追求し、意識の主体につく変化を研究して、結論を得てきたわけです。 さてここで、 質の科学と世界哲学の発見に至る過程を振り返ってみます。 こんな疑問、 自分とまったく同じ人が今現在存在したら、いったいどういうことになるのか、 という問題設定から出発し、意識の主体は、脳の小さな一部に対応していることがわかりました。 そこから、前述の論理展開がなされるわけです。 次に、 運動量保存則という物理法則があるけれども、ほかにも保存される量(ベクトルなども含めて)があるのではないか、と探し続けていた時期がありました。 するとある時、回帰する量(ベクトルなども含めて)を発見したのでした。 運動量時間回帰です。 前に述べた、惑星の公転による四季の発生も、運動量時間回帰で示せます。 それは順次回帰です。 それについて、 まず初めは、花粉のブラウン運動において、一次元と二次元では、花粉が原点に回帰する確率が1であることを知り、一次元で計算してみると、たしかに回帰する確率は1とでました(必要ないので、2次元では計算していませんが)。 それも運動量時間回帰となっています。 これはランダム回帰です。 そういった量が意識の主体にもあって、それは回帰するのではないか。 そういった量は、体験の質に応じて意識の主体につく変化であり、その変化が回帰するのではないか。 体験(の質)には、あるものがあれば、それとは正反対のものがあるではないか(ただし、単独質もある)。 つまり質は方向性をもっているではないか。 それは、運動量と運動量回帰則などに似ているのではないか、対応しているのではないか。 人がなにかを体験すると、体験の質に応じて、その意識の主体に変化がつくはずだ。 なぜなら、すべての存在は、なんらかのエネルギーを受けると、それに応じた変化を受けるからである。 そして確率的に正反対の体験を同じ量体験すると、その変化は元に戻ることになる。 しかし、 それによる回帰は、確率的回帰である。それでも体験の質ごとに分類すると、それぞれ一次元で扱えるから、回帰する確率は1となって必ず回帰する。 だが、その場合、すべての体験の分布がすべて1対1でなくてはならないし(その可能性は高い)、人間の意志によって、避けたりできる体験というものがでてくれば、回帰しないこともでてくるかもしれない。 しかし、結局、人間の意志によって、望む体験ができることは少ないので、やはり確率的な回帰はあるのだろう。 ふーむ、 確率的回帰か。 うーん、 その原理より優れた原理はないものだろうか。 そうだ、 意識の主体に、同じ体験によって同じ変化がつき続けていくと、そのうち限界に達して、意識の主体は壊れてしまうだろう。 すべての存在がそうなっている。 そこで、正反対の体験を同じだけ体験すると、ついていた変化は元に戻ることになる。 そうなると、意識の主体は壊れることから免れるはずだ。 意識の主体は、そういった存在だろう。 意識の主体を壊さないために、そういった仕組みがあるのではないか。 そうだ、この世界でもっとも重要な意識の主体が壊れないための仕組みがあるはずにちがいない。 という経緯で、より説得性のある理屈にたどり着いたのでした。 それだけではなかったのですが、 (時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません) |